ウィーンに生まれウィーンから一歩も旅に出ることもなく、31歳の若さでこの世を去ったシューベルト。
シューベルト25歳のとき、ピアノ曲「さすらい人幻想曲」が書かれる。
その第2楽章のメロディーは、19歳のときの歌曲「さすらい人」からきている。
その歌詞(G.P.シュミットの詩による)の内容は、
『 私は山の彼方からやってきた。谷は霧立ち、海は波立っている。
私はとぼとぼとさすらい、少しの喜びもなく、ため息は絶えず、“どこなのか”と尋ねる。
太陽も冷たく、花はしぼみ、人生も疲れ果てた。人の言葉はうつろに聞こえ、私はどこへ行っても見知らぬ旅人だ。
“私の憧れの国はどこなのか”探し求めても見つからない。
緑の希望の国、バラの咲く国、友のさすらいゆく国、死者のよみがえる国、私の言葉を話す国、そのような国はどこにあるのだ。
私はとぼとぼとさすらい、少しの喜びもなく、ため息は絶えず、“どこなのか” と尋ねる。魂の息吹のなかにこだましてくる声は、
“お前のいないところ、そこに幸いがあるのだ。” 』
なんて孤独!この孤独の底から不思議な安らぎが伝わってくる。シューベルトのピアニッシモ。
シューベルトの最弱音の世界には、魂が、なかば天国に行ってしまった響きがする。死の孤独を超越し、
天国から語りかけてくるような声が聴こえる。
シューベルトの人生はそのほとんどがベートーヴェンの人生に入ってしまう。
ウィーンに住んでいたベートーヴェンが27歳のとき、シューベルトは同じウィーンに生まれ、
若きシューベルトはベートーヴェンを賛美し敬愛してやまなかったそうだ。
ベートーヴェンが1827年、56歳の人生を終えたとき、シューベルトは号泣しながらその葬列に参加し、棺を担がせてくれと申し出た。
その翌年、彼は31歳の若さで生涯を閉じる。病魔の床でうわ言のように「私の帰る世界はここではない。
ここにはもうベートーヴェンはいない。」と言っていたそうだ。
そして「敬愛するベートーヴェンの墓にそばに埋めてくれ」と頼んで亡くなった。
古典主義の代表選手、べートーヴェンがその時代の枠にはまらずロマン的であったとすると、
古典主義でありたいと願ったシューベルトは、それにもかかわらずロマン主義の最先端を駆け抜けた人だったと思う。
シューベルトが25歳のとき作った散文詩に「わたしの夢」というのがある。
その中には、彼の深い悲しみがある。
『 ぼくが愛を歌おうとしたら、愛は痛みになった。そこで、今度は痛みを歌おうとしたら痛みは愛になった。・・・・・ 』
その痛みと愛を深く理解した仲間たちに“シューベルティアーデ”(シューベルトの仲間たち)と呼ばれる親友たちがいた。
決して裕福ではなく、貴族のサロンのようではなかったけれど、いつもシューベルトに寄り添い、
音楽を、そしてシューベルトを愛してやまなかった仲間たち。
私は、ベートーヴェンと話すことができたら、天国への直通電話で「おそれながらマエストロ!」
と語りたいことが山ほどあるけれど、シューベルトには、シューベルティアーデの仲間のひとりに加わって、
そっとそばで彼の魂の痛みに寄り添いたいと思う。