「私、この演奏でメロメロになったんだ。」
デュオを組んでいる相棒が先日、一枚のCDを貸してくれた。
ひたひたと近づく確かな春の気配の中、まだ冷たい風に震えながらもしっかりとふくらみはじめた桜のつぼみを眺めながら、
演奏を聴いていて、すべての動作が止まった。
胸の奥からこみ上げてくる熱い想いと静かなやさしさ。
ショパンのバラード4番だった。
-瞑想-の言葉が浮かぶ。
何年、何十年経っても忘れることのできない映像が、誰にでもきっとあると思う。
ながめているだけで涙が止まらなくなった経験。
ある日の夕暮れ、厳かに沈む夕日の美しさであったり、一枚の小さな絵画かも知れない、
見つめ合った愛するひとの瞳だったり、その涙だったり。
その後の人生の、節目や、自分自身の心の中と向き合ったとき、その思い出の鮮やかなシーンは彩を帯びて蘇る。
私のそんな映像は、ロダン美術館にひっそりとただずむ”パンセ”の像だ。
若かりしころ、ヨーロッパでの演奏旅行の最中、数日間と限られたパリでの滞在最後の日、
日没の早い冬の午後、ロダン美術館に駆け込んだ。
見事な庭園も含めてじっくり鑑賞してほしい受付の老婦人は、足早に駆け抜けるおのぼりさんを見る目でけげんな顔だった。
私は飢えたように「何か」を探していた。
ひとつでいい、何か心に刻み込まれる出会いを予感しながら館内に、足を速めた。
そして、私の目の高さに、白く静かに微笑む”パンセ”の像があった。
足がすくんで動けなくなった。
手が触れる近さに、手のひらにすっぽりと納まりそうに小さな乙女の顔。
穏やかに微笑み、ひとり瞑想する彼女。
その美しさにただ見とれて、時を忘れて佇んだ。
ちょうどそのとき、黄昏とともに沈みかけた夕日が、もう一度、なごりのように一瞬強い輝きを増した。
その光がパンセの顔を照らし出したとき、彼女の穏やかな顔は、叫びだしそうな耐え難い哀しみをこらえて口をとじていた。
ショパンのバラード4番の静かなフレーズの中に、あのオレンジの夕日のなかで、
ひとり青ざめ哀しみに耐えて佇んでいる”パンセ”のこころを想う。
私が、演奏せずにいられないのは、こんな揺さぶられる想いがこころに行き続け、
今もその美しさを求め続けているからかも知れない。